ひめもす、猫を揉んで過ごす。一歩も外へ出ず、洗濯をして、靴を磨いて、しょうもない料理で腹を満たす。よい音楽をたくさん聴いたことがなにより。風呂の時間もよかった。本ならトルストイ。日曜日というのはこれだ。夜、ようやくパンツに有り付く。
俳句会のことを考える。
結社としてやるからには、みんなで上手くならないといけない。当然、率先することが自分の役目であって、ぼくが進歩を止めたら、そのときは主宰を降りる。
上手くなるには、楽しむこと、辞書をしつこく引くこと、この二つが重要かと思う。辞書を引くというのは先人に習うということであって、句集を読むことと同義だ。
俳句も言語のコミュニケーションだから、それ故に、基本的には論理的に読めるような文法を用いないと句意が伝わらない。言葉は社会の側にあるのだ。句会を重ねるたびに、参加者もそのことを感じているかと思う。実際、今月の句会に出された句は、どれも句意は分かりやすかった。よい傾向だと思う。そして、伝わりやすさを重視した結果、まったくつまらない凡庸な句、それはまるで標語のような句が出来上がったりする。そこが難しさであり、もどかしさであり、面白さでもある。
今回の拙句は下の2句。相変わらず、点はまったく稼げないが、気にしていない。強がりではない。だいたい何かで点を稼いだ経験などなく、補習や追試の経験なら豊富だ。
冬近し我を拾へよ異国船(兼題「国」)
秋うららぱかと眉間を広げけり(当季雑詠)
前者はストレンジャー願望。季語は「冬近し」で晩秋。後者は、ラジオで何気なく聞いた「眉間の幅を広げておくと運が舞い込む」という話を面白がって作った。季語は「秋うらら」、漢字で書くと「秋麗」、「しゅうれい」とも読む。「うららか」とすると春の季語になる。いずれもよく晴れた日の情景で、太陽の高度が下がってきた(春なら上がってきた)ことによる光の変化の気づきを愛でる感じ。
もうすこし解説をつづけると、俳句には「切れ」がある。拙句を例に言えば、どちらの句も上五で一度、切れている。スラッシュで表すとこうなる。
冬近し/我を拾へよ異国船
秋うらら/ぱかと眉間を広げけり
この「切れ」の感覚に馴染むことが、句作のうえでも、鑑賞のうえでも、大事、いや必須と言ってもよい。俳句では、散文で用いられる助詞や句読点が省略されているものだ、と思えばよい。動詞や形容詞が省略されることもままある。「冬が近いなあ。あ、あの外国籍の船、おれを拾ってくれたらなあ、どこに行く船だろうか……。」と。スラッシュや句読点、それからスペースなど、便利な記号を用いずに表現するのも俳句の特長(制約)のひとつである。
それにしても、異国船の句はテーマがありきたりな上になにも特別な表現がないし、眉間の句は着想こそ悪くないが、「ぱかと」の部分が甘すぎる。今回は我ながら駄作2句だった。勉強、勉強。
来月以降は冬の季語を兼題にする回が3回つづきます。次回は「十一月」、それから「日記買ふ」「スケート」と。ぜひ、どうぞ。
この二日、コーヒーを控えて深く眠った。


