奥沢の読書会へ行く。題は谷崎潤一郎の「春琴抄」。
谷崎は20代の頃にエッセイの「陰翳礼讃」を読んだくらいで、小説は敬遠していた。アレルギーというか、食わず嫌いというか、まあ、よくある理由だろうが、マゾヒズムやフェティシズムのイメージが先行してどうも手が出なかった。それが今回この小説を読んでみて、やられた。面白かった。ほかの作品も読んでみようと思う。
ぼくは、谷崎はこの小説で、天才芸術家の狂気を佐助に投影した、と読んで会に臨んだのだが、春琴の心理についてはほとんど読めていなかったと言わざるを得ない。例えば店主曰く「違うのよ。春琴が佐助に尽くしているのよ」と。ぼくはそんなことすこしも考えなかった。が、そう読むと辻褄が合ってくる。これには脱帽であった。
それから、なぜ谷崎が句読点を可成り省いた文体を用いたか、議題に上げてだれかに教えを請うつもりだったのだが、機会を逃した。ぼくの仮説は、春琴と佐助が生きた時代が幕末から明治にかけてであるから、いまのような句読点の使われ方が一般化する前の文体を模し、物語の時代への没入感を高める演出の意図があったのではないか、ということなのだが。
つい長居し、気付いたら1時をとうに過ぎていた。慌てて帰る。
2時、猫は通りに面した窓辺に居座り、帰宅する飼い主をじっと見ている。かわいい。すまぬ。
おほ谷崎、おおたにざき、大谷崎。







