ただ黙って本を読んでいた。それゆえにとくに面白いこともない。いつものことか。
池澤夏樹がそうであるように、町田康も、ぼくにとっての、世界を開く扉になるらしい。町田さんを読むと、あれもこれも読まなくてはと、つぎの本が降ってくる。本だから、ざあざあ、は降らないけど、ぼとぼとぼと、と降ってくる。比喩的に言っているわけだから、頭にハードカバーの角が当たる心配などはしていない。竹取物語をあらためてじっくり読んだのもそう。角田光代訳の源氏物語も読みたい。買うか。買えば、いい正月休みになりそうだ……。うう、親戚の子らのかわいい顔が浮かぶ。多いんだよ、まったく、幸せだね、何人いんだ、あれ。知らんぷりすることも可能ではある。金がないときは知らんぷりするようなオジさんだとは認識されている。ちょっと阿呆な、あれ、あの子、名前なんだっけ、仮にJ君でいいや、この子を除いてはだれも近寄ってこないし。例年、彼らに配るのは図書カードである。彼らの図書カードをケチって自分の源氏物語全巻セットを買うのもなあ……。それか、一度配って、「いらない人は返してくださーい」と呼びかければ、何枚かは帰ってくるかもしれない。実際、J君は図書カードに価値を見出せずに「いらない」と言って返してきた過去がある。ぼくは喜んで受け取った。それを見ていたお姉ちゃんに「これお金みたいなもんなんだよ」と諭されて慌てて奪い返しに来た、そんなJ君である。
それから、太宰だ。太宰は、ハイ・ティーンから二十代の前半にかけて、つまりは青春期によく読んだから、読んで読んだ気になっている作家の筆頭と言ってもいいが、やはりこれはもう一度研究するべきだろう。軽妙でコミカルな文体は町田さんと通ずるところがあるし、個人的には、あれからぼくにどれだけ読む力がついたかを測るにはうってつけだ。だいたいが、若い頃は格好つけてまず太宰を読んでいたわけだから、そもそもが読んでいるふりだった。それに、おれって無頼なんではなかろうかと、思わなくもないこの頃である。無頼なんて本当にあり得るのだろうか。
文学から入ると、社会科学や自然科学に越境するのは容易で、ぼくの場合、ここしばらくは社会科学の深みに填っている。もうすこし社会科学の勉強はつづけるけど、やはり文学に戻るととても落ちつく。などと阿呆が抜かす。やはりあの子らに図書カード配るか。
