今夜のコンサートがあんまり楽しみで、待ち合わせ時間より早く会場に着いてしまった。同道のNは時間通りにやってきた。えらく落ち着いたものである。貫禄がでてきた。いいことだと思う。
ブルーノート東京の矢野顕子トリオである。
もうすっかりノン・アルコールでのコンサート鑑賞にも馴れた。ジュースとスイーツを手早く選んで、それをゆっくり開演まで楽しむ。演奏が始まったらコーヒーだけ頼んで、演奏に集中する。隣の席のピッツァとビールはいい香りだったが、こちらだってまったく悪くはない。
このトリオは、観客の決して小さくない期待を超える演奏を毎回聴かせてくれる。だから聴き終わって、すぐにつぎのライブを見たくなる。また来よう、と思う。そうしてニューヨークまで飛んでしまったのが昨秋のNだった。今夜もやはりすごかった。「いいライブだった」ではなく「とんでもないライブだった」と高揚させてくれるのがこのトリオだ。
それはやはり、3人がそれぞれリスクをとった演奏に挑んでいるからなのだと思う。もっと平穏なレベルで音楽を成立させることは、プロの音楽家だったら簡単なことだ。でも彼らにその選択肢はない。去年よりも進化した”トリオ編成”での演奏にとてもこだわっている。そんな性分の3人が集まっている。そういうことなのだと、ぼくは感じている。
「ラーメンたべたい」のアレンジは洒落ていた。ベースのウィル・リーがベース・ラインとリズムとハーモニーを自在に行き来して、矢野顕子は鍵盤から離れ、歌に専念した。リソースを歌唱に集中させた矢野顕子の表現力には恐れ入った。ラーメン、食べたくなった。
「千のナイフ」はドラムのクリス・パーカーの超攻撃的な演奏をフィーチャーしたインプロビゼーション風のアレンジ。クリス・パーカーが派手に叩きまくって最高潮に盛り上がったまま曲は終わった。いまにも破綻しそうな(失礼ないいかただが、素人にはそう見える)演奏はスリルがあって、純粋に興奮する。会場が湧き立って、ドラマーに激賞を浴びせた。個人的にはこの曲が今夜のハイライト。
宇宙飛行士の家族が地上からロケット発射を見送る心境をテーマにした新曲も素晴らしかった。今夜はこの曲などで、あらかじめコンピューターに打ち込んだサウンド・エフェクトを大胆に用いていた。それは矢野顕子のエレクトリック・サイドの本領発揮という感じがする。そしてこれもまさに、毎年違うことにチャレンジするこのトリオの姿勢の現れといえるだろう。
終演後、ドラムのクリス・パーカーが描いた絵を買うのがこのコンサートの楽しみのひとつだ。彼が演奏旅行に持ち歩いているスケッチブックをめくって、気に入ったものを選んで買えるのだ。当然、どれも一点もののオリジナルの絵画作品だ。その購入体験自体がいい思い出になるし、買った絵を自宅に飾れば眺めるたびにその夜の演奏を思い出せるのだから、これは素晴らしいサービス(商売)だ。
今回も一枚選んだ。そしてそこには演奏を終えたばかりのクリスさんがいらっしゃる。勇気を出して、想いを伝えた。
「あなたの絵は2枚持っています。これが3番目です。ランドスケープを選んだのは初めてですが、この絵がとても好きです」
「ワオ! 集めてくれて本当にありがとう」
などと短い会話をして、絵にサインをもらって、礼をして離れて、すこし落ち着いて、もう一度話しかけた。
「これは、どこを描いたランドスケープですか?」
「ええっと、これは、オークラというホテルの10階から街を見下ろしたランドスケープだったんだ」
「東京なんですね。とても好きです。じゃあ」
と別れを告げて、やはり離れて、やはり少し落ち着いて、さらにもう一度話しかけた。まったく挙動不審な客だ。クリスさんには申し訳ない。
「あの、写真を一緒に撮ってもらえますか?」
「もちろん!」
それでNとクリスさんと並んで写真を撮って、めでたしめでたし。ああ、幸せで倒れそうだ。
同じく絵を買ったNは、昨秋ニューヨークまでコンサートを見に行ったことを伝えればよかったと、後悔していた。それはたしかにそうで、なにしろぼくたちにはクリス・パーカーを独占する充分な時間があったのだ。たまたま、ほかにファン・サービスを待つ客もいなかった。なにしろ彼のドラミングが凄すぎて、興奮していて、余計に緊張して、勝手に取り乱した。クリスさんは終始温かく応えてくれたのに、焦った。もったいないことをした。それにしても興奮していた。なんだか思い返すと恥ずかしくなってきた。
帰り道、Nを降ろしてひとりになってから考えた。「おれは自分が好きなミュージシャンのことは写真に撮れないだろうな。好きすぎて、舞いあがってしまう。あはは」。やれやれ、残念だ。だって、たとえばミック・ジャガーを撮れることになったとして、生きて帰れる気がしない。まず失神してしまうだろう。じゃあ、いったいだれがミック・ジャガーを撮っているんだ。なんてことはない、ロック・スターがいれば、写真家のスターだっているんだ。そりゃそうだ。
とにかく、ぼくにとっては「音楽」が至福なのだ。それは幸せなことだ。
Nよ、誘ってくれてありがとう。君はいつも不精なぼくを街へ連れ出してくれる。あと、絵を買うのに現金の持ち合わせがなくて貸してくれた。この恩は忘れないだろう(忘れないためにここに書いておくわけだが)。絵を買って、二人の所持金がちょうど尽きたあたり、ぼくたちはツイている。だが現金もすこしは持ち歩こう。
長々と書いたが、要は寅さんのアレ、すなわちニーチェの永遠回帰が今夜もガツンときた、という話だ。


