夕方、大学生のH君がやってきた。僕が呼びつけたのだ。
座敷に向かい合って、床にドンと一升瓶を置いて語り合う、そんなのが僕の憧れだが、やったことはない。ちゃんとグラスに注いでビール出しちゃう。相手のことを考えてワインとか用意しちゃう。それにテーブルと椅子で暮らしている。いつか和室のある家に暮らしたら「一升瓶ドン」はぜひやろう。
妄想はさておき、現実の僕は酒断ち中である。コーヒーと紅茶と茶菓子を出した。お茶会である。
「いや、僕はお酒は飲んだ方がいいと思いますよ」と彼。
「そんなことはわかってるんだよ」
「やっぱりお酒にもいいことがたくさんあると思うんですよ」
「もういいんだよ」
「なるほど、もう飲み尽くしたってことですか?」
そういうことだ。どういうことだ。願掛けのための酒断ちを彼に説明した。それに若い頃は出会いを求めて街へと出かけるものだ。僕はその段階を過ぎたのだろう。
彼がいま読んでいるというサルトルの『嘔吐』が僕のテーブルの上にも置いてあって、これには二人で笑った。
「こないだ構造主義を勉強しててさ、それで実存主義に遡ってみようとおもってるとこなんだ。それでサルトル」
「構造主義ってどんな感じですか?」
難しいこと聞くんじゃないよ。
80年代生まれの僕も、2000年代生まれの彼も、歴史の中では誤差みたいなもの。世代で語って面白いのなんて野球の話しぐらいだ。阿呆ほど世代に固執する。本はいいね、H君。人間は書き留めることができるんだ。文学だけじゃない。音楽だってそうなんだ。
彼のこれからの進路についての相談を受けた。僕の経験則で言えることは極論ばかりで、自分でもつい苦笑してしまう。かと言って一般論を聞きたいわけではないだろう。彼もそのつもりで僕の偏見を聞いてくれたからよかった。ぜひNやK君にも相談してみてくれ。きっと彼らも親身に応えてくれる。
彼に来てもらったのは猫に慣れてもらうためだった。僕の旅行中のペットシッターを買って出てくれたのだ。もちろん報酬を払って仕事としてお願いする。個人的な友人に任せられると、僕としてはとても安心だ。猫は今日もシャーシャーやっていたが、帰る頃には頭も撫でられてずいぶん慣れたみたいだ。次回からは大丈夫そう。
聖蹟桜ヶ丘の駅前で彼と別れて、そのまま丘の上の周回路に向かった。ガーミンをランの計測モードに切り替えると「今週はレストしてください」と表示された。「あら、帰ろうかしら」と、つい思う。たしかに脚は張っている。まあ、リカバリージョグぐらいにしておくか、と走り出した。2キロとすこし走って帰宅。

