矢野顕子、コンサートの夜

買ったばかりのローファーを履いて、日が暮れかけた4時ちょうどに自宅を出た。渋谷の地下駐車場にクルマを停めたのが5時の少し前だから道が空いていた。駐車場から地上に上がったところの代々木公園の並木道は人で溢れていた。僕たちはNHKホールで行われる矢野顕子のコンサートを観るためにやって来たのだが、どうもこれはコンサート目当ての人の山ではなさそう。
「イルミネーションを待っているんだね」とLが教えてくれる。
「なるほど、5時ちょうどに点灯するんだ」
見渡すと、誰もがカメラやスマートフォンを上に構えて待っている。声は全体的に若い。カップルかグループ連ればかりだから賑やかだった。思いがけず興奮の渦のなかに飛びこんでしまって難儀したが、NHKホールはこの雑踏を100メートルほど抜けた先にあるからかき分けて進むしかない。

まだ群衆を抜け出せないうちにイルミネーションが一斉に点灯した。周囲から歓声が上がった。青のLEDライトだった。並木道の端から端まで、200メートルぐらいだろうか、見た限りすべての木に電飾のコードが巻きつけられている。光の効果が通りのありさまを一瞬で変えてしまったものだから、遠近感が掴めなくなった。立ち止まって観るにはいいが、歩いているこちらにはいい迷惑である。
「じつにくだらない。なにがいいのかね」と、つい口に出る。
「うん。なんだかね」
Lは僕の小言に慣れている。
「こっちの丹下健三建築のほうがよっぽど見応えがあるな」
僕は吐き捨てるように言いながら、代々木体育館に目をやった。

混乱を抜けてホールに入って、指定の座席まで上がった。3階席だった。ピアノの鍵盤とドラムセットの打面が俯瞰できるのがこの席の楽しみ方かなと見当をつけた。開演まではまだ小一時間あった。僕はポケットからヘミングウェイの短編集を取り出して読んで過ごした。Lはファッションを重視した結果、文庫本さえバッグに入らなかったと言った。

6時になって開演を知らせるブザーがなった。いまこうして書き起こしていて、ある記憶が呼び起こされる。僕は矢野顕子のコンサートを聴くのは3回目だと思っていた。ブルーノート、府中の森、今回のNHKホール、と。それがもうひとつ忘れていたのだ。いつだったか日比谷公会堂で行われた公演にも行ったことがある。それはピアノソロだったと思う。建物が印象に残っているのだが、演奏の細部が思い出せない。情けない。酒の飲み過ぎで忘れてしまったのだろうか。酒飲みは忘れるために飲む、と言って飲むわけだが、本当に忘れたいことに限ってまったく忘却してくれないのが酒のよろしくないところだ。僕は大切なことをほかにももっと忘れているのかもしれない。

話をNHKホールに戻す。客席のライトが消され、バンドがステージに上がる。佐橋佳幸、小原礼、林立夫、そして矢野顕子。演奏は素晴らしいものだった。林立夫のドラムプレイは手元だけでなく、両脚の動きまで覗き込めた。僕はドラマーに目がない。そうして細部に意識を集中させていると、2時間はあっという間に過ぎた。曲の合間の彼女のトークには今回も大笑いさせてもらった。すべてが終わった瞬間にまたつぎも来たいと思う、それが僕にとっての矢野顕子のコンサート体験だ。

終演後、僕たちはいつもより口数が少なかったと思う。僕はなにかと冗談を言いたがる性質があるのだが、今夜は口を滑らせて余計なことを言うのはいけないと思った。Lだって普段は陽気な議論家なのだが、その時はどうやら感慨に耽っていたから、2人の間に流れる寡黙な時間が心地よかった。僕たちはお互いに偏見も多い人間だと思うが、変なところでロマンチストである。